Google Trendsと匿名性とチャンスの平等化


楽しすぎるよGoogle Trends
http://www.google.com/trends?q=ichiro%2Cmatsui&ctab=0&geo=all&date=all
これは比較的結果がきれいに出たサンプル。Matsui VS Ichiro !!


マーケッター必携アイテムだなんていわれてるが、逆に誰でもマーケティング的なことができるようになったということ。もちろんこれで全てがわかるわけではないし、どう使いどう解釈するかが逆に問われるわけだが、職種や手持ち予算や情報ソースやスキルの占有による情報の隠蔽の壁がこれでまた一つ崩れたということだ。


現時点では検索結果というコンテクストのみがトレンド定義対象となっているが、やはりそこにはポジティブ/ネガティブ判定とかタグとか一つの事象に関するコンテクストをどんどん追加していけるようになればいいんじゃない?
また、Trends結果に関するコンテクストってのもおもしろいと思う。冒頭のMatsui VS Ichiroは、もう日本だけでも100人以上の人がこれをおかずにあーだこーだ楽しんでるんだろうけど、そんな評論化気分な議論とか交わしてみたいじゃないかい。まあその辺はGoogleじゃなくてその周辺で待ち構えているベンチャーとか個人とかの仕事だろうけど。


ここでふと思い出したのがCNET JAPANの江島さんブログで熱い議論が盛り上がってる匿名性の話。江島さんと平野さんの間で交わされている議論の本質とはちょっとずれるけど。

そもそもビジネスっていうのは消費者あってナンボなんだから、現代における消費者像ってものをうっかりセグメンテーションとかポートフォリオとか言っちゃって個々の顔が見えない集合へと分類してしまって、そんな一面的にしか理解できなくてどうしますか!っていう話

であることはおもいっきり差し引くとして、それでもなおGoogleのようなDBを構築しそれをGoogle Trendsのような形でより多くの人が便利に利用できるためには、より多くのnがこういうちょっとしたコンテクストを表明することが必要で、そのために匿名性が一役買っているのだとすれば、それはそれで有用ではないかと思う。


この辺の議論において「有用」なんて言葉で斬ってしまうのはかなり一面的ではあるのだが、自分にとって最上位の目標である「できる限りチャンスが平等に与えられる社会」への一歩として、Google Trendsのようなサービスが無料で誰にでも使える場所にあることこそが重要で、匿名性に伴う大小有象無象の問題があったとしてもそれは後で考えりゃいいじゃんと原理主義に陥りがちな自分は考えてしまう。


という感じで、複数の物事を同時に処理できない我がCPUとメモリをどうやったら江島さんレベルに押し上げることができるかを考えつつシリコンの谷間の夜は更けてゆく。この場所にふさわしいことを谷間最後の夜に考えられて幸せっス。


さて今日もいっぱい積み残し。一つ何かがわかりかけてくるとその10倍ぐらいわからないことが増えていくという無限連鎖の罠。
最も重要なことは、今回のGoogle TrendsとかGoogle100ドルPCとかStart ForceとかYoutubeとか、雪達磨式に周囲を巻き込みながら加速しつつあるチープ化、結果的に「チャンスの平等化」に向かっているこの辺の事象が、コンテンツとかハードとかそれ以外のものも全て巻き込んでどこまでも進行して行った場合、その先にはどんなお金の回り方になってるのか、というゴールが、相変わらずまったくイメージできないことだ。一つのヒントは通貨にあると思ってるのだが、具体的にどういう仕組みになればいいのかがもうなんとも。誰かわかる人がいたら教えてください。わからない人も興味があれば一緒に考えてください。

カンブリア宮殿


カンブリア宮殿id:jkondoさんとミクシィの笠原さんが出てたので見た。
まあ毎週見てるんだが。


村上龍が司会をやっている割には平凡な切り口で、やっぱり一般大衆向けの制作を第一義とするチャンネル数の少ない今の日本のテレビにはちょっとわかりにくいことの本質を伝える機能は期待できないんだなと思った。てっきり「希望の国のエクソダス」のポンちゃんあたりになぞらえて、経済圏の構築とかそういう濃い話をするのかと期待してたんだけど。村上龍がしたかったのは本当はそのあたりの話じゃないかと思うんだけど。


ちなみにちょっと自分が写っててびっくり。
そしたら放送終了後おかんから電話があって、「あんたもうちょっと痩せな」。
orz=3

はてなソーシャルプログラミング


タイトル
はてなソーシャルプログラミング


それ何なの?
ウェブサービス制作の出会い系


ネタ元。
はてな認証APIが公開された。http://auth.hatena.ne.jp/
平たく言うと、誰でもはてなと連携するサービスを作れるということだ。
しかしこんなのあればいいのになあというアイデアとこのAPIがあっても、プログラミングできないのでサービスを作れない人がいる。そういう人は意外といっぱいいるはずだ。自分もそう。自分で作れたらいいなと思って人力検索でプログラミングについて質問したがでもやっぱり身につくまでの時間を待ってられない。(それはそれで続けるとしてもアイデアには旬があるので)


発想。
うまい安い早いを提供するプログラマが大勢待機していてそれをマッチングする仕組みが作れればもっと世の中におもしろいサービスがどんどん出てくるのではなかろうか。今サービスを作る権利はプログラミングができる人にしかなくて、そこに入門するにはそれなりの時間と労力がかかる。こういうのあったらいいなあと思いつつ、作るだけのモチベーションとか知識がない人にとって、安価にそういうものが作れて公開できたらその人にとっても世の中にとってもプラスじゃないかと思う。


具体的イメージ。
そこで考えてみた。はてなソーシャルプログラミング。

  • サイト上ではてなアイデア的にねたを公開し投票したり作る人を募集したりできる。
  • 逆に、ねたを公開したくない人はそこに登録されているプログラマ情報DBの中から価格とレベルに応じて一本釣りしはてなグループプライベートモード(有料)上でやり取りすることができる。(これは一本釣りした時点でメールとかのやり取りもできるので不要かな)
  • プログラマにはユーザー評価の仕組みがあり、それとタスクのボリューム&難易度に応じて依頼料が決まる。それを見積もるというのも一機能として提供できればいいな。
  • 面白いねたなら無料でこの指止まれ的に人を集めてやる、という仕組みもあってもいいかも。


背景。
プログラマがチープ化している。と言い切ってしまうと生産性とか創造性の観点で異論があるだろうが、まあ全体的にプログラマの人口は増えてるしみんながアイデアを持ってサービスを設計して公開するという機能を持っているわけではない。そこは役割分担して助け合えばいいのではなかろうか。
一般的なユーザーもネットの動く仕組みをなんとなく理解してきてアイデアの生まれやすい土壌ができた。市場性は十分なレベルになってきているのではなかろうか。


課題。
まずはコミュニケーションの問題。えてして自分のやりたいことを正確に伝えることは難しい。その精度を高めるために、仕事で外注する際には仕様展開という作業があり仕様書というフォーマットがある。やりたいことの内容とレベルを整理しタスクに落とすという仲介者(プロジェクトマネージャ的な機能)が必要か。機能的にはそろってても本質ではない部分でダメ評価が下されそうなUIとか体裁の悪さってのも致命的だろうからやっぱり仲介者機能は必須かなあ。
ここにお金が絡んでくると余計大変。トラブル対応が大変そう。納期守れなかったりした場合の保障とかどうすんだ?
あと、依頼者と受託者という不均衡な立場では面白いものはできない予感。仲介者がいても同様。この三者が対等に意見を交換できるような仕組みにしないとだめっぽい。
これらが「建前上は」きちんと役割分担されていて対等でもあるはずの大企業の開発部門。でもうまくいってるとは自分の経験上も思えない。お金を出す人がまた別だからなのかな。誰がリスクを負うのかというあたりも発想の余地がありそうだ。


とりあえず。
ここまで書いて、やっぱり誰でも思いつきそうなのにまだ世の中にないってのはそういう問題があるからなのかと課題がわかってきた。まだまだいろいろアイデアは広がるんだけど明日は3時起きなのでこの辺で一度UPしておきます。

外部に表現することによって起こりうる罠について


人間は本当に移ろいやすく忘れやすい生き物だ。自分でも痴呆じゃないかと思うぐらいものを覚えられなくて腹が立つ。


変わり身の早い奴とよく言われる人がいるが、そういう人の半分ぐらいは特に悪気はなくて、単に「無意識のうちに」、前考えてたことを忘れて、今目の前にあるそれっぽい考えに染まってるだけなんじゃないかと思う。
まあその話は置いといて。


サラリーメンをやっていると、上司や経営層に対して金くれとか人くれとかの用途のプレゼンをする場合、「言葉さわりが派手で分かりやすくかつきちんとしたロジックを備えており説得力がある、しかしその実、それは全てをあらわしているわけではなくまた時には本質を語っているわけではない」というプレゼンをすることはよくあることだと思う。というか必要だ。
より身近には、ブログだって読者を意識する限り、そういう一面はある。


しかしそこには大きな罠があることに最近気づいた。
それは「人に話してるうちに自分の考えも整理できた」という人に話すことのメリットの裏返し。
「人に説明するための表面的なロジックを一生懸命考えて何度も語ってまたそれに対するリアクションがあったりそれに答えたりしているうちに、いつの間にか意識がそっちに偏ってしまい、ついには最初の本質を忘れてしまう」という罠だ。


その罠の最悪のケース(だが往々にしてあること)は、そういうことを繰り返しているうちに、外面ばかり派手になって反比例するように中身がスカスカになって、そのことに自ら気づけなくなる、ということだ。人をだまくらかすために自らが作り出したロジックにいつのまにか自分がはまるという罠。なんて恐ろしい罠なんだろう。。。


「初心に戻れ」って言葉は、誰でも何事でも、そういう「いつのまにか本質がすりかわってる」問題は出てくるから、適当なタイミングで何度も本質に立ち返らないと危険だよ、という意味だったのか・・・・・本当にそういう意味なのか知らないが、そうだとしたらまさに至言だ。


いや、どうでもいいからもう少し脳にメモリ容量が欲しい・・・あるいは脳のデフラグが必要なのか?忘れてもいいことと忘れてはいけないことを分けて整理するとか、定期的にいるものいらないものをメンテしてくれるとか。

攻撃性



ずっと前からいつか時が来たら読もうとあたためておいた「コインロッカー・ベイビーズ」を一息に読んで、「半島を出よ」からの流れもあり、仕事絡みでいろんな人と「次の十年」について話してきたことからの流れもあり、ずっと感じ考えてきたことがはっきりとリンクした。


コインロッカー・ベイビーズ」では「ダチュラ」という言葉に象徴されている、あらゆる物事に対する耐え難い攻撃性についてだ。
疑問とか批判とかそんなものじゃなくて、破壊欲というかなんというか、もうどうしようもないっていう絶望とそんなものは全てぶっ壊してやるっていう希望とが程よくミックスされた、いわゆるバーサーカー状態。
村上龍の表現を借りると。

「真実なんてどこにもないしあったとしてもろくなものではない」


「俺は見抜くのだ、見なければいけないものだけを見る、障害物は何もない、照準スコープで獲物に狙いをつけるように、見通す、決断する、迷いはまったくない、それ以外のことを俺は信じない、たとえ世界中が敵になっても俺は俺の決断だけに従う、そういうことだ」

世の中の何をどこまで信じるかは人それぞれの距離感があると思うけど、実は何も信じていないくせに信じているふりをすることに慣れてしまったら、自らそれに気づくことができなくなる。

なんのこっちゃという内容だが、未来の一片を創造するという仕事というかライフワークを、自ら望み、まがりなりにもそこに向かって歩んでいる以上、ある部分、自分以外の何事をも信じないという勇気が絶対に必要だ。
また常に少数派でいるという決意と覚悟が必要だ。
そしてあらゆる物事に対する怒りと破壊欲が必要だ。
それらは与えられるものではなくて、絶望の中から生み出すものだ。


id:jkondoさんが以前のブログで引用していて、ものすごく琴線に触れたこんな一文。

「悔しい気持ちが大事なんだ。ほんとに殺してやりたいくらい癪に障るって気持ちがあれば、たいていのことは成し遂げられる。偉大な人間はみんな闘争心旺盛だよ。それを表に出す出さないは、別にしてね」


歩みを止めないために、正直な攻撃性を保ち続けなければ。
こんなことを言っている限り、いつまでたっても落ち着いた人間にはなれないんだけどね。



実業と虚業の評価軸


id:umedamochioさんが「虚業という言葉について」と言うエントリーを書かれていて
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20060313/p2
感じるところがあったのでメモ。


私の中で実業と虚業とは、事業を通して「世の中に貢献しよう」という志の量によって区別されるもの。モノを作っていようが形のない曖昧な事業であろうが、あまり関係ないと思う。


モノを作っていても、虚業と思える例はいくらでもある。
消費者が望むからとかこれは間接的に○○に貢献しているとかいい加減なお題目を掲げて、世の中を後退させる(例えば環境を著しく破壊するとかそれを消費する人のレベルを下げるとか)ようなモノやコンテンツを制作する・頒布する類の事業は、虚業と言って差し支えないものであると思う。
逆に、世の中に貢献しようと強く思っていてでもそれができていないとしても、少なくともその方区に向かって努力している限りは実業と呼んでも良いのだと思う。(そう考えると虚業の代表選手のように考えられている宗教法人とかも「その純粋性が保たれている限りにおいては」実業か。お、これは発見だ。)


そういう意味において、「虚業」などと言う言葉は世の中からなくしてしまわなければいけない言葉だが、その境界線はとても曖昧で、例えば最初は世の中のためと熱い志を持って起業してある一定の成功を収めた途端に儲かるなら何でもいいやと言う虚業に落ちてしまうように、同じことをやっていても経営者の志いかんによって簡単に実と虚は変質してしまうということを我々はよく目の当たりにする。継続的な志の自己評価とそれに向かう努力がセットになっていることが「実業」の条件なのだろう。


そう考えると、この基準は一つの命題を抱えていると今気づいた。「世の中のため」とか「世の中の前進」の定義だ。


これはもうその経営者の判断基準に依存するしかない。これは世の中のため、あれは害悪だ、などと簡単に言い切れるほど世の中は単純ではない。しかしながら、なんらかの哲学的な基準を元に、主観的過ぎずかつ客観的過ぎない評価軸を自分の中に持つことによって、個々の経営者、というか人が、ちょっとずつ自分の軸に従って歩んでいくしかない。それが他とぶつかったときに、また新しい評価軸が生まれるかもしれない。それは試行錯誤という前進のための避けられない道だ。


自分と言う個人もまた自分と言う事業の主なのだから、全ての人は、「自分の人生は実か虚か」なんていう恐ろしすぎる命題に常に挑まなければならないということか。
・・・と話が大きくなりすぎたところで、おしまい。


少なくとも、主観的過ぎる評価軸で安易に人に向かって「虚業だ」なんて言わない人間になりたいものですね。